バカとしか言えないでしょ。
またしても可夢偉の声は無視された。
イギリスの期待は失望に変わった。「もう、本当にバカと言うしかないでしょ!」
土曜の夕刻、可夢偉は珍しく怒っていた。
激しく打ち付ける雨に1時間半もの中断を挟んで、予選が終わったのは午後4時前。それから長いミーティングを終えてもなお、可夢偉の心のささくれは収まってはいなかった。
あれだけ暗く鉛色に沈んでいたはずの空はすっかり明るくなり、雲間からは綺麗な青空さえ見える。それが皮肉に見えて、余計に心をかき乱す。イギリスの空は、果てしなく広い。
「なんかもう、あのトラック(エンジニアリングミーティングルームがあるトランスポーター)ひっくり返したろかと思うくらいですよ。もう、バカでしょう!」
冗談めかしてそう言うのが精一杯だった。
放っておけば、次から次へと不満の声が口をついて出てしまう。もっとストレートな、辛らつな言葉が次々と。
チームとのエンジニアリングミーティングを終えた可夢偉と話し終わって、あるジャーナリストがつぶやいた。あんなにはっきりと避難するなんて、びっくりした……。
関西人であり、今も関西弁を使う可夢偉にとって、「バカ」は敢えて婉曲的な表現をした言葉だ。「アホ、ボケ」と言ってしまえば、それはあまりにストレートすぎる。
ストレートに今の心を表現すれば、歯止めが利かなくなる。だから、敢えて冗談めかして言ったのだ、「バカ」と。
可夢偉が”標準語”を使う時は、決まってそういう時だ。
クルマの仕上がりが極めて良く、上位グリッドが現実味を帯びていただけに、悔しさは尚更だった。
「かなり速かったし、余裕やったと思います、マジで。ドライでも良かったし。マジで……速かった(良い結果だった)と思いますよ。このチャンスを逃したたのはデカいな……。何なんやろ……悩みに悩むなぁ……」
マレーシアから感じていた、チームへの不信感。
豪雨の1周目にタイヤ交換を求める可夢偉の声は掻き消され、そのギャンブル性の強い戦略はチームメイトに委ねられた。それが表彰台に繋がったからこそ、なおさら不満は大きかった。
それでも可夢偉は、その思いを声に出すことなく耐えてきた。
3番グリッドの路面に落ちたオイルを拭うことを忘れていても、ポールポジションが狙える肝心なところでトラブルが起きても、4位から表彰台を争おうかという時にピットストップのミスが再発しても。
だが、さすがに今回は我慢がならなかった。
簡単に防ぐことのできたはずのミスだったからだ。
「クルマは凄く良かったんで、みんなと同じタイヤを付けてればみんなより良いタイムが出せるのは分かってたんで、リスクを負う必要もなかったし、全然焦る必要はなかったんですよ……」
バーミンガムの空港に降り立った時、イギリスの空は青かった。
オリンピックムードの高まるロンドンで大混雑が予想されていたヒースローの入国審査を避けるため、可夢偉はバーミンガム行きの飛行機に乗った。だがイギリスで第二の都市とも言われる工業都市のこの街でも、入国審査の行列は長く伸び、1時間以上を待つ羽目になってしまった。
午後9時を過ぎてもなお明るいこの時期のイギリスだが、この日のノーサンプトンシャー州の空は夜になって厚い雲に覆われ、その時刻を待つまでもなく大雨によって辺りは薄暗くなった。今思えば、波乱含みの不気味な週末を予感させる空模様だったのかもしれない。
「ポールポジションを獲って、6番スタートで1周目にトップに立って、そのまま逃げ切るっていうのが今週の目標なんで(笑)。気楽に行こうと思います」
バレンシアで科された5グリッド降格のペナルティは痛い。それが好調が期待できるシルバーストンならば尚更だ。
しかし可夢偉は笑ってそう言った。
気にしたところで仕方がないし、結果が変わるわけではない。それが可夢偉らしい考え方だ。
「いや、本気ですよ。気持ちは150%以上、そう1000%ですよ。実際に獲れるか獲られへんかは知らないけどね(笑)。でも木曜日の時点でなら、夢を見るのは自由やからね」
そういって笑い飛ばす。
(続く)
【F1LIFE新書】2012年イギリスGP 小林可夢偉『果てしなく広いイギリスの空』著者:米家峰起
発行日:2012年7月14日
ページ数:27
データ形式:PDF(PC、iPad/iPhone、Android対応)
データサイズ:6.5MB
ダウンロード価格:210円(税込)
(販売期間:2012年7月25日まで)
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